INTERVIEW
Vol.96 イベンターさんインタビュー企画第二弾-霜上さん原口さん
アリーナツアー開催にあたり、各エリアのイベンター諸氏に登場いただくインタビューシリーズ第二弾は、九州エリア担当のLAND霜上さん、横浜エリア担当のキョードー横浜原口さん。11月27日(土)・28日(日)のマリンメッセ福岡A館、12月4日(土)・5日(日)の横浜アリーナに向けて、これまでのGLAYとの思い出やコロナ禍苦労話を交えつつ、オンラインインタビューにてライヴの見どころを語ってもらった。GLAYとの関わりを聞くうちにお二人の人生の歩みも浮き彫りになる、人間らしさ溢れる取材となった。
2021.11.22
- まずはGLAYとの出会いからお聞かせください。霜上さんはキョードー西日本ご在職中の2014年に、『GLAY 20th Anniversary LIVE BOX VOL.1』封入ブックレットにインタビューで登場していただいています。‘97年からGLAYの現場に入り、2000年には前任者から引き継ぎ。2001年の北九州での「GLAY EXPO 2001 "GLOBAL COMMUNICATION"」をご担当されていたんですよね?
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霜上
そうですね、自分が担当するようになったのは2000年の“HEAVY GAUGE”ツアー(「J-PHONE presents GLAY ARENA TOUR 2000 " HEAVY GAUGE“」)からでした。ぶっちゃけて言うと、もう階段を上り詰めて頂点まで行っていたバンドなので、前任者が辞める時に「僕はやりたくないです」と言ったんです。「普通、逆だろ?」と言われたんですが、もう出来上がっているバンドですし、前任者とGLAYは仲が良かった中で、引き継ぐのはやはりプレッシャーが大きいですよね。今思えば変な答え方をしたなぁとは思うんですけど、当時の正直な気持ちでした。それぐらい、GLAYはモンスターなバンドだという印象があったので。
- そのような形でのスタートから20年超。長く担当されてきた中で、関係性はどう変化してきましたか?
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霜上
僕はJIROさん以外のメンバーとは同級生なんですよね。ミュージシャンとしてだけではなく、生き方そのものを勉強させてもらっていて、おこがましいかもしれませんが、人生を一緒に学ばせてもらっている、という想いは常に持っています。人としての振る舞い方を間近で見て勉強して、一緒に成長させてもらっていると感じるんです。
- なるほど。横浜エリアご担当の原口さんは、GLAYといつ頃からお仕事されているのですか?
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原口
この会社に入る以前に、会場整理のアルバイトをしていた時代にも、横浜アリーナ公演などで何度か仕事をさせていただいていました。実は、幕張メッセの20万人ライヴ(「MAKUHARIMESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO'99 SURVIVAL『GLAY EXPO'99 SURVIVAL』」)でも現場にはいたんです。その時はかなり大変な想いをした記憶があります(笑)。会社に入って実際にGLAYの担当になったのは、2006年の復活の時だったと思います。GLAYが独立にまつわるいろいろなことで大変だった時期に、うちの社長の岡本が、TAKUROさんを含めラバーソウルさんとお話をさせていただいて。まずはじめにZepp Tokyoで、その後日本武道館(『GLAY in BUDOKAN 2006 ROCK'N' ROLL SWINDLE』)でライヴをする流れだったんですけど、ちょうど僕はその時他の現場が重なってしまって行けていなかったんです。実質的に関わり始めたのは2008年のホールツアー(『GLAY HIGHCOMMUNICATIONS TOUR 2007-2008』)で、前任はいたんですけど僕も少し現場に入る、という形で付いて。最終的にちゃんと担当になったのは、いきなり大きくなってしまうんですけど、2009年の15周年の日産スタジアム(『GLAY 15th Anniversary Special Live 2009 THE GREAT VACATION in NISSAN STADIUM』)でした。
- 日産スタジアムは独立後初の大型野外ライヴでエポックメイキングでしたが、どんなことが特に印象に残っていますか?
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原口
日産スタジアムでのライヴ自体は何度か、他のアーティストで経験はあったんですけど、初めて自分で担当して。チケットの販売だったり、公演の中身をラバーソウルさん含め一から一緒につくっていったりするのは初めてだったので。12/7発行予定のフリーペーパー、「Fender Newspaper Vol.8」 とにかくいろいろありましたね。
- HOTEL GLAYという新コンセプトが生まれた、メモリアルな公演でもありますよね。
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原口
そうなんです。HOTEL GLAYという初めてのコンセプトで、しかもいきなりあの規模の会場だったので、「これが実際どういう形になっていくんだろう?」というのが、僕もなかなか見えなくて。HOTEL GLAYが2012年に大阪・長居スタジアムでも開催されたり(「GLAY STADIUM LIVE 2012 THE SUITE ROOM in OSAKA NAGAI STADIUM」)、最近になってアリーナツアー化したりもして、「あ、日産スタジアムのあのライヴがこういう流れに繋がっていったんだな」というのがようやく見えた気がしています。
- まさにその「HOTEL GLAY」の初アリーナツアー版が、2019年の『GLAY ARENA TOUR 2019-2020 DEMOCRACY 25TH HOTEL GLAY THE SUITE ROOM』でした。マリンメッセ福岡では2019年12月14・15日、横浜アリーナでは2020年1月25・26日でライヴを行い、その直後に新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われることとなります。この約2年間を、一言では括れないと思いますが、どのように振り返っておられますか?
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霜上
僕は2018年の9月に、独立してLANDという会社を立ち上げたんですね。そこから1年ちょっとの間はライヴをできていたんですが、こういう状況になるとは当然全く予想が付かなくて。どうしていいか分からないし、引き出しもないし、頭が真っ白になったのが正直なところですよね。最初に大阪のライヴハウスが(クラスターの発生源として)すごく叩かれていて、その印象をこの業界はずっと引きずっていて、ライヴハウス=ダメな場所みたいなイメージが世間的に植え付けられた気がします。あれはスタートとして痛かったですよね。「あと3か月したら大丈夫でしょう」とか、「半年したら」「1年後はきっと大丈夫でしょう」とか、いろいろな意見がありましたけど、結局のところ皆分からないじゃないですか? 誰にも予想できないし、今(※11月中旬)は少し落ち着いていますけど、この先も分からないし。ただやはり、こういう時こそ大事な時間で、「やるべきことをやっておかないと、コロナが明けた後にすごく差が出る」と思ったんですよね。これからの人生でも予想のつかないことが起こると思うんですけど、こういう経験を活かしていかなきゃダメだな、と。絶対コロナのせいにしちゃいけないな、とは真っ先に思いました。音楽とは全く違うビジネスもいろいろと考えてみたりしましたし、今だからできること、これから仕込めることを1個1個やっていたつもりです。
- この2年の間、GLAYの皆さんと何かコミュニケーションを取っていらっしゃったんですか?
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霜上
具体的には取っていないんですけど、TAKUROさんとはたまに会っていました。お家に遊びに行かせてもらったり、緊急事態宣言下ではない時に福岡に遊びに来られたりもしていたので、馬鹿話ばっかりしていました。
- そういう交流で霜上さんは英気を養う部分もあったんでしょうか?
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霜上
そうですね。10年ぐらい前、プライベートで僕が自分の子どものことを相談したことがあって。小学生の時、学校に行けない時期があったんですね。そうしたらTAKUROさんが「浩規、〇〇ちゃんは『ありがとう』って言える?」って。「はい、言えますね」と答えると、「じゃあ、『おはよう』『こんにちは』は言える?」「はい、言えます」。「じゃあ、電車を降りて突然雨が降ってきました。〇〇ちゃんは傘を2本持ってます。傘を持ってなくて困った人がいます。1本貸せるかな?」って。「貸せますね」と言ったら、「それでいいじゃないの。学校に行けないから何? 福岡がダメだったら九州、九州がダメだったら日本、日本がダメだったらアジア、アジアがダメだったら世界。広げていってあげればいいんじゃないの?世界はこんなに広いんだよって。 なんてことないよ」と言ってくださったことに、すごく救われたんですよね。
- TAKUROさんらしい懐の深さと視野の広さを感じる、愛情に溢れた素敵なアドバイスですね。 アーティストとイベンターさんというお仕事上の線引きを超えた、人間同士の結びつきを感じます。
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霜上
そうなんですよ。妻も未だに「TAKUROさんの言葉を聞いてすごく救われた」と言いますし、世の中で同じように悩んでいる人たちがいたら、そういう言葉を掛けてあげたいな、と思いますね。
- 原口さんも、そういった人と人との結びつきをGLAYとの関係において感じられたことはありますか?
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原口
僕らは関東の人間なので(長期宿泊を伴う地方公演を担当するイベンター陣と違って)、なかなかメンバーさんとそういう形で接することはないんですけど。ライヴ会場だったり、ホテルに戻った時に少し会話をしたりするだけでも、やはりGLAYの皆さんの温かさ、メンバー全員の仲の良さは感じますね。誰に対して壁をつくるわけでもなく、本当に気兼ねなく気さくにずっと話をされているので。毎回それを見て「あぁ、すごいな、この人間性」と感じながら、「俺もこんな人間になりたいな」と思っています。
- 横浜と言えば、2020年1月の横浜アリーナ2DAYS直後の2月3日、横浜港に寄港したクルーズ船で集団感染が起き、注目エリアになっていた記憶が蘇ります。
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原口
なかなかびっくりしました、あれは。
- 同年2月15日には、やはり横浜で開催された「JAZZ JAPAN AWARD 2019」授賞式にTAKUROさんが出席し、受賞記念演奏するという晴れ舞台もありました。ほどなくしてコロナ禍が本格化しましたが……原口さんはこの約2年間をどう振り返っておられますか?
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原口
まず、GLAYの横浜アリーナはなんとかギリギリ終わって良かったな、という想いがありました。2月に入って、特に中旬を越えてから一気にコロナのことが世間にも知れ渡っていって。最初はたぶん、Perfumeさんのライヴかな?
- 2月26日の東京ドーム公演が、その日に出された政府の自粛要請を受け、当日中止に。衝撃的なニュースでしたね。
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原口
あの出来事が大きく報道されてしまった後に、僕も小さなライヴハウスなどで開催されるいろいろな公演を担当していたんですけど、軒並み、夏前までは全部一旦無しになって。そのスケジュールを移動させるのに、まずは四苦八苦していましたね。5月ぐらいになると、配信などでライヴするアーティストも増えてきて、「なるほど、こういう形でまずは始まっていくのかな」と思いながら見ていました。夏時期ぐらいになると、僕が制作部分も少し手伝っている役者さん、アーティストの方が「配信ライヴをやりたい」ということで、少しずつ配信もやらせてもらいながら、なんとか夏を乗り切って。夏以降は配信の人気も落ちかけてきたので、10月ぐらいから関東側は「ライヴを少しずつでも再開していこう」という流れが出てきていました。でも、冬場に掛けてまた「コロナが」「緊急事態宣言が……」となっていく中で、「どうやって進めていったらいいんだろう?」と毎日思いながら過ごしていて。アーティストから、また制作サイドからも「ライヴをしたい」という話は来るので、なんとかしてそれを実現するには、どういう形に持っていったらいいんだろう?と毎日考えながら、なんとか乗り越えてここまでこられたのかな?と思っています。
- 大変だったんですね……。ライヴ再開に向けて、具体的な対策を日々考えていらっしゃったんですね。
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原口
(感染防止)対策の基本的なガイドラインはもう成り立っている中で、僕らが何をプラスアルファできるか?ですよね。一番大きいのはやはり自治体で、市、県がどういった形でアナウンスを出してくるか?によるので、役所の方々といろいろとやり取りをしながら、できることを少しずつ進めている、という流れです。
- 地道な交渉、対策を重ねてライヴを開催し、成功例を積み上げてこられた蓄積があるからこそ、GLAYも全国を巡るアリーナツアー開催に漕ぎつけたわけですよね。大阪城ホールを皮切りに無事にスタートしていますが、お2人はGLAYライヴの一番の魅力は何だと思われますか?
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霜上
僕は、何と言っても“あったかさ”ですね。いつも感じていますし、今回のツアーも大阪の2日目を観させてもらいましたけど、すごくあったかいライヴで。このバンドはたぶん、どういう状況になっても生き残っていけるなと思いましたね。どんな制限があっても、その中で自分たちを表現してお客さんを魅了することができる。そういう数少ないアーティストの一つじゃないかな?と。ファンの方たちとも繋がっていますし、メンバー間の絆の深さは長年掛けて築いてきた繋がりの証だし、あの4人の中には誰も入れない。今回の『FREEDOM ONLY』も本当に素晴らしいアルバムだと僕は思っていますし、ツアーの今後もすごく楽しみです。
- 『FREEDOM ONLY』は、これまでのアルバムとは特に何が違うと感じておられますか?
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霜上
やはり、今までの数倍あったかいなと。こんな時代につくったからそう感じたかもしれませんし、アルバム『UNITY ROOTS & FAMILY, AWAY』(2002年)と僕の中で重なるところもあります。今までの作品ももちろんあったかいんですけど、今回は特に人間の懐の深さを感じるというか、プラスアルファの何かがあるんですよね。上手く言葉で表現できないんですけど。
- 原口さんは、GLAYのライヴ特有の魅力は何だと思われますか?
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原口
ほぼ霜上さんと同じなんですけど、やはりメンバーのあったかさと優しさですね。お客様に対してもそうですし、お客様からメンバーに対して向けられるあったかさと優しさが、会場という一つの空間で一体になっている。他のアーティストのライヴでもそういうことはあるんですけど、GLAYはより一層それが強いな、という気がしています。霜上さんも大阪へ行かれたとお話されていましたが、僕も大阪の初日を観に行ったんです。客席では大声を出せないという制限はあるんですけど、そんな中でもお客様がGLAYの音、TERUさんの声に対して自分なりの表現をものすごくしていて、「一体感をつくっているな」と感じました。MCでTERUさんが、いつもだと歓声が大き過ぎてGLAYの音がよく聞こえない時があるんだけど、今回は拍手だけだから音をよく感じ取れて、これはこれでものすごくいいライヴだよね、とおっしゃっていたのを聞いて「あぁ、たしかにな」とも思いました。ストレートに音が聞こえて、歌詞も伝わってくる感じがあって、「なるほどなぁ」と。今回のこういう状況下でしか出せない何か、今までとはまた違った会場の雰囲気が出ているんじゃないかな?と思います。
- 制約のある中でも、新たに生まれるもの、得られるものもあるということですね。11月27・28日のマリンメッセ福岡の公演は、客席はどのような座席配置なのですか?
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霜上
福岡は一席飛ばしで、市松模様(※前後左右が重ならない形での配席)ですね。
- 会場に来られるお客様に対して呼び掛けたいこと、楽しみにしてほしいことなどあれば、お聞かせください。
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霜上
やはり今までとは全く違う環境でのライヴなので、お客様ご自身もすごく戸惑いはあると思うんですよね。いろいろな不安もあるだろうし、そういう中でチケットを買って足を運んでくださるのはすごくありがたいことですし、ただただ安心して来てください! いつも通りのGLAYで、十分に楽しめます!
- ちなみに、福岡のGLAYファンの方の地域特性ってあるのですか?
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霜上
九州男児がすごく多くて、「彼女の“Modern…”」を披露すると皆さん喜んでいるイメージがあります。2006年のGLAYが独立した時の最初のホールツアーで、2日目のセットリストに「彼女の“Modern…”」が無かったんですよね。開場中にお客様を見たらすごく男性が多かったんですよ。それで楽屋へ行ってメンバーに「すみません、今日は男性が多いので、「彼女の“Modern…”」に変えてもらっていいっすか?」とお願いして、セットリストを変更してもらった記憶があります。それに応えてくれるバンドもすごいし、舞台のスタッフチームも含めてすごくいい思い出ですね。ありがたい話です。
- 霜上さんの臨機応変な対応も素敵ですね。
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霜上
「そういうとこ、うれしいな」とTERUさんに言われた記憶があります(笑)。
- お二人は長年GLAYとご一緒されてきて、一番の思い出というと何でしょうか?
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原口
やっぱり2009年の日産スタジアムですかね。今ふと会社の窓から外が見えて思い出していたんですけど、8月の日産スタジアム公演前の6月に、プロモーションとしてゲリラライヴ的なことをしたんですよ。みなとみらいのランドマークタワーのすぐ横に日本丸という帆船があって、その前の日本丸メモリアルパークという広場で(『GLAY 15th Anniversary Special 2009 THE GREAT VACATION VOL.1 ~SUPER BEST OF GLAY~ “MEET & GREET VACATION”』)。
- 詳細の情報解禁は当日朝だったにもかかわらず、15000人もが集結した伝説のフリーライヴですね。
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原口
これは笑い話なんですけど、僕はその前日に別の現場で遅くまでいろいろとやっていて、GLAYの現場に遅刻してしまって。メンバーの出迎えに間に合わなくて若干怒られました(笑)。起きた瞬間、「あぁ、やっちまった~」となって、慌てて向かった記憶がありますね。
- お話を聞いただけで胃が痛くなります(笑)。GLAYの皆さんは全員、オンタイムどころか定刻より早く現場に着いていらっしゃいますもんね。
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原口
そうですね。ホテルが楽屋代わりになっていて、僕が着いた時にはもう皆さん入られていてバツが悪かったですけど、皆さん笑って迎え入れてくれて。すごく気が落ち着いて、何とかやれたな、という当時の情景が今浮かんできました(笑)。
- 霜上
原口さん、全然大丈夫ですよ。僕はゴルフクラブを持ったまま寝坊したことがありますから(笑)。
- 原口
あはは!
- 霜上
5年ぐらい前だったと思いますけど、前の晩に打ち上げで盛り上がって、行く人のゴルフクラブを車に前もって積んで「じゃあ僕が持っていきまーす!」なんて言っていたんですが。起きたらスタート時間だったっていう(笑)。
- (笑)。霜上さんはこれまでで一番の思い出は何ですか? やはり北九州の“GLAY EXPO”ですか?
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霜上
一番の思い出ですか? 何だろうな……2006年に、GLAYが独立した年のホールツアーの1本目が九州の宮崎だったんです。一番の思い出はあの時、幕が開いて1曲目の「LAYLA」が始まった瞬間ですかね。皆いろいろな想いがあって、「うわ~、始まった!」みたいな。あれは何とも言い難い瞬間でしたね。歌詞の内容も状況に重なって、「すごくいいツアーになるんだろうな」と思ったオープニングでした。
- 「LAYLA」は先日7月31日の「GLAY×THE PREMIUM MALT’S The Premium Live」でも1曲目に披露され、コロナ禍に再起を誓う力強いエールに聞こえました。GLAYの長い歴史を知る方たちに響くであろう、力強いメッセージになっていましたよね。福岡公演の後、横浜アリーナ公演が12月4・5日に控えていますが、どのような座席配置になりますか?
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原口
今、神奈川県と会場と話をしているんですが、グループディスタンスで配席していて、それで既に完売までは行っております。
- お客様に気を付けていただきたいこと、楽しみにしてほしいことがあればお聞かせください。
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原口
今後冬場を迎えるので、(コロナを巡る)状況は変化すると思いますけれど、皆さんその状況に対応していただきつつ、もちろん、こちらからも何か変わった点があればきちんとアナウンスさせていただきます。制限があってルールはいろいろと出てくるかもしれませんが、やはりその中で出来る限り楽しんでいただきたい!と思っております。あとは、横浜アリーナという会場は少し特殊でして、ラムダシステムといって、可動式のユニットで組む座席になっているんです。他の会場よりもなるべくステージの近くにお客様に座っていただくというか、ステージを少し覆うような形状の座席になっていますので、そこも含めてお楽しみいただければな、と思います。
- 原口さんご自身は、大阪初日をご覧になった上で、ライヴに対してどのような期待をされていますか?
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原口
難しい質問ですね(笑)。基本的にはライヴのコンセプトもセットリストもアルバム中心になっていたんですね。僕の個人的な想いとしては、大阪で聴いた時に、『FREEDOM ONLY』の曲自体はものすごくいい曲が並んでいるんですけど、わりと玄人っぽいというか。コアなファンが聴き入るにはものすごくいいライヴなのかな?と思いつつ、もう少しグレー層というか、幅広いお客様に対してちょっと分かりやすい部分があっても面白いのかな?とは思いました。もちろん、ところどころそういう要素はきちんと入っていたんですけども。
- なるほど、貴重なご意見ですね。今後TERUさんは70歳まで歌い続けると宣言なさっていますし、GLAYの活動はこれからも続いていきます。今後イベンターさんとしてご一緒にやってみたいこと、GLAYに期待することなどをお聞かせください。
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霜上
僕はただただ一緒に歳を取っていきたいっすね(笑)。70歳になるまで常にメンバーからいろんなものを吸収したいし、それを以て人生の生きる糧としたいし。ただただ学ばせてください! 一緒に走らせてください!! もっと違う引き出しもいっぱい持っているでしょうし、いろんな場面で今後そういうところが出てくると思うので、その懐の深さをまだまだ楽しみにしていますし、僕も勉強させてもらっています。
- 霜上さんは、ご自身が独立という大きな決断をする時、GLAYの皆さんに相談されたのですか?
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霜上
もちろんしましたよ。「僕は応援するよ」と言ってくれたし、それを裏切ってはいけないし。この前、大阪城ホール公演で、ステージへ向かう直前のTERUさんと目が合って少し話ができたんです。「浩規、福岡も頼むよ!」って。それが2年ぶりの会話でした。ドキッとしましたね。最高の環境でステージに立たせてあげるのが僕らの仕事の一つなので、そこはちゃんと責任を持って頑張ります!
- 原口さんはいかがですか?
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原口
霜上さんと重なる部分もあるんですけど、やはり一緒に何かしらを少しずつでもいいですからつくっていけたらな、成長していけたらな、と思うのが一番ですね。3年後の2024年にはまた周年を迎えるので、そこも踏まえて一緒に、またこれまでとは違う形でのGLAYをどうやって見せられるか? 皆さんと、そしてイベンター全員を含めて一緒になって盛り上げていけたらな、という想いがあります。
- 貴重なお話をありがとうございました!
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霜上・原口
ありがとうございました!
文・大前多恵