リリースが間近に迫ってきた『ONE LOVE Anthology』。これまで当インタビューコーナーでは、DISC1において『ONE LOVE』のリミックス&リマスタリングを行なったレコーディング・エンジニアの競 紀行氏へのインタビュー、デモ音源を収録したDISC2の全曲解説を掲載してきたが、今回は『ONE LOVE』が発表された2000年の前後に収録された映像を収録されたDISC3、その編集を担った映像作家・翁長 裕氏のインタビューをお届けする。氏は日本の音楽業界に映像作品という概念がほとんどなかった頃から積極的にその制作を進めてきた、日本ミュージックシーンにおけるPV、MVのパイオニアである。GLAYとは「Freeze My Love」のPV撮影から始まって、数々のPV、MV、ライブ作品を手掛けてきた。そんな翁長氏が今回、膨大な映像資料をいかに再構築したのか。氏の創作信条と併せて制作背景を訊いた。
2021.04.19
『ONE LOVE Anthology』の話の前に、翁長監督の経歴をお伺いしたいと思います。Wikipediaを見ましたところ、「1981年、アンダーグラウンドロックシーンのフォトドキュメンタリーが、写真月刊誌『写楽』にて特集」とありました。監督はロックのライブを撮影するところから映像作家としてのキャリアをスタートされたんですね?
- 翁長 裕 そうなんです。そもそも僕はスチールカメラマンなんですよ。最初はもちろん何の伝手もないし、大きな仕事をもらえるはずもなく、「それじゃあ何を撮ろうか?」と思い悩んでいる内に、アングラロックから始めまして。話は前後するんですけど、自分自身、バンドをやっている時期がありまして。ペンキ屋のバイトをしながら、そこの仲間たちが皆、音楽好きで「一緒にやろうぜ」って、1年間くらいですけど、バンドをやっている時期がありましてね。そもそも、高校時代から自分は音楽をやってまして、ドラムをやっていたので、そのバンドにはドラマーとして参加してたんですけれども、大して才能もなく、そこまで情熱もなかったんですよ。その内、写真のアシスタントをやるようになって、カメラマンになろうと思っていたんですけども、「何を撮ればいいんだろうか?」ということで、さっきの話に戻るんですね。JAGATARAとか、そういうアバンギャルドロックの全盛期というか、大分盛り上がっている時期だったんです。ご存知ですか?
もちろんです!
- 翁長 裕 それが自分の中ですごい衝撃だったんですね。音楽というのはエンターテインメントであって、ステージと客席とはある距離感を持っていて、予定調和というか、皆さん楽しむために集まって、そこで盛り上がる。そういうコミュニケーションの場だと思っていたわけですよ。ところが、そのアングラロックの現場に行ってみたら(笑)──。
私はそれを間近に見たわけではないですが、ステージから物が飛んでくるようなライブもあったそうですね。
- 翁長 裕 そうそう(笑)。JAGATARAが僕の最初の撮影だったんですけど、(ボーカルの江戸アケミが)いきなり全裸になって客におしっこをかけて。あと、自分で額を切って血だらけになりながら客席に飛び降りて女の子を追いかけまわしたりとか、身の安全を自ら守らなければいけないような(笑)……何ていうんですかね? とにかく僕からすると、常識をすべて覆されたというか。ただ、そこには言葉では片付けられない高揚感があって、自分では気が付かなかったもうひとりの自分が出てきて。そこで魂を浄化させる…みたいなところがあって、「あ、音楽の可能性というのはそこまであるんだな」と、所謂刷り込みになっちゃったわけですよ。
JAGATARAのライブを間近でカメラに収めたことがものすごく大きな体験だったんですね。
- 翁長 裕 そうですね。僕の音楽映像屋としての根っこにはそれがあるわけです。「皆さん、集まって楽しくやりましょう!」ということよりも、もっと原始的な……脳髄に繋がっているようなところがあったわけですよ。
額から血、客席に小便というJAGATARAのライブは伝説です。
- 翁長 裕 ええ。で、(JAGATARAから始まって)長期間にわたって撮った(様々なアーティストのライブ)写真を、当時、“写楽”という雑誌がありまして──。
写真誌ですよね? 懐かしい名前です。
- 翁長 裕 そこで特集してもらったんですね。それがきっかけで所謂メジャーの音楽のお仕事をいただけるようになりまして。そこから紆余曲折あった中で、RCサクセションというバンドのオフィシャルカメラマンをやらせてもらったんですよ。
それもWikipediaで見たんですけど、RCサクセションのカメラマンというとCHABO(=仲井戸麗市)さんの奥様がやっていたイメージがありますが?
- 翁長 裕 そうですね。おおくぼひさこさんがずっと彼らの写真を撮っていたんですが、僕は今お話したようにアングラから来たので、収まった写真じゃなくて──これは綺麗事に聞こえるかもしれないんですけども、音の聴こえるような写真を目指していたんですね。そうではないと、JAGATARAとかのムーブメントを表現できなかったんです。ただ、ストロボを焚いて、「すげぇ怖いだろ?」 「ギャー!」みたいなものだとゲテモノになってしまうんですよ。それでは僕が感じた、あの何かというのは表せなかったんで、「どうすれば近付けるんだろう?」という中で、自分なりのいろんなテクニカルなもの──スローシャッターで撮ったり、そこに少しストロボを当てたり、何かしらの工夫をしながら撮っていたんですが、それがメジャーのRCサクセションの写真を撮らせてもらった時に効果的だったんだろうなと思うんです。ということで、おおくぼさんが撮られるライブの写真と僕の撮ってきたヤツとは、ミュージシャン側からすると、その違いが顕著だったんだろうと思うんですね。僕からすると、それまでストリップ小屋とか暗いライブハウスとかで一生懸命に撮っていたのが、いきなりRCサクセションを撮ると、照明がバンバン当たってるし、お客さんは盛り上がっているし、それはもう別世界というかね(笑)。ある意味、撮りやすかったですし、たくさんいるカメラマンの方々とは違う視点で撮ろうという意識もあったので、そういう意味でも違っていたんだと思いますね。
なるほど。で、RCサクセション以外にも様々なアーティストを写真に収められたと思いますが、その後、時代が動画にシフトしていくと共に、翁長監督もビデオ制作に関わり始める──そんな流れだったでしょうか?
- 翁長 裕 そうですね。RCサクセションとの仕事の中で転機があったんですけれども、マネージャーが新しもの好きで、家庭用のビデオカメラをいち早く取り入れて。家庭用は言っても、今からするとホントに重たくて、デッキとカメラが別々でケーブルで繋がっていて両方担いで…みたいなものなんですけど、それを買って記録用に撮ってたんですよ。それがメンバーには不評で(笑)。素人が撮ったわけですから、当然、落ち着きもなかったでしょうし、いろいろな不具合もあったんでしょう。で、「翁長ちゃん、撮ってみる?」なんて言われて僕が撮ったんです。それまで僕がライブを撮る時というのは、いつシャッターを切ってもいいように、当時はすべてマニュアルですから、絶えずピントを合わせ、露出を合わせ、フレーミングしながら狙っていたんですけれども、それがビデオと似ていたという。写真であれば「1枚も切れなかったな」というような時間軸でも、ビデオで撮ると音も入るし動きの流れの中で別の表現が加わってくるわけですから、非常に自分にはフィットしていたというか、そこで「ビデオっておもしれぇな」と思ったのが転機ですよね。
1980年代半ば、アメリカではMTVが全盛で、日本でも映像なくして音楽は成り立たないとなってきた時期だったでしょうか。
- 翁長 裕 そうですね。その頃は音楽雑誌での仕事がメインになってきて、先ほど仰ってくださったように、いろんなバンドだったりアーティストの方だったりのライブとかインタビューとかの写真を撮っていく中で、いつも顔を合わせていたEPIC SONYの担当者で自分と同い齢くらいのヤツと仲良くなりまして。彼がある時、「自分たちでビデオを撮ってフィルムコンサートを企画しているんだけど、一緒にやらない?」と誘ってくれたんですね。それが“BEEプロジェクト”と言いまして、ご存知でしょうか?
はい。そこに翁長監督が関わったと聞いております。
- 翁長 裕 佐野元春さんとか、渡辺美里さん、あとはTM NETWORKとかね。で、そういう人たちのビデオを自分たちで撮るんですけど、今からすれば、素人も素人ですから(笑)──。
逆に言えば、まさに日本のPV、MVの黎明期だったということなんでしょうね。
- 翁長 裕 はい。ちょうどMTVが入って来て、Michael Jackson『Thriller』とかの頃ですよね。日本でも(MVを)作ろうという気運が高まっていたんですけれども、当時はほとんどCMの関係者や映画の方々がチームを作ってやっていたんです。ただ、それはレコード会社の人に言わせると「どうも違う」と。「音楽が伝わってこない……だったら、同じお金をかけて撮るなら自分たちで感じるままに撮ってみようか」というところから始まったんですね。
当時はまだ手探り状態で撮っていたんですか?
- 翁長 裕 手探りでしたよ(笑)。機材屋に行ってカメラとデッキを借りて、予算がなくてVE(=ビデオエンジニア)さんもいないから、(機材屋に)繋ぐところだけ聞いて。まぁ、絞りとか多少のことは分かっていたんですけど、込み入ったこと──例えば、ホワイトバランスをどうするとか、ゲインをどうするとか、「あ、これだ!」とかガチャガチャやりながらやってましたね(笑)。
そうでしたか。そのEPIC SONYの“BEEプロジェクト”が1984年だったと伺っておりますが、その翌年には、翁長監督ご自身の初演出として矢沢永吉『TAKE IT TIME』のPVを手掛けたそうですね。
- 翁長 裕 そうそう。
この辺は流石に矢沢永吉と言いますか、矢沢さんはPVの制作も早かったんですね。これはどんな経緯だったんですか?
- 翁長 裕 矢沢さんはですね、“BEEプロジェクト”の中の大沢誉志幸さんのPVを矢沢さんのマネージャーさんが見て、「このカメラマンは誰だ?」と調べて電話をくれたんです。で、「翁長さん、ディレクションはしたことがありますか?」と開口一番訊かれたんですよ。僕、ちょうど寝起きで、よく分からないまま、「ああ、大丈夫っスよ」なんて言って(笑)、そこから始まったんです。ただ、ディレクションと言っても、今見たら恥ずかしい演出ですけども、仲間たちがいろいろと助けてくれましたし、乏しいながらも自分が培ってきたスキルを全部導入してやったので、まぁ、矢沢さんも喜んでくれました。
それで、演出も行う映像監督の仕事が増え、1986年に株式会社イフを設立して独立されたんですね。
- 翁長 裕 はい。そういうことになります。
それではここからGLAYとの出会いについて伺っていきます。翁長監督はGLAYとはほぼデビュー当時からのお付き合いで、最初の仕事は1995年1月にリリースされたシングル「Freeze My Love」のPV撮影だったそうですが、これにはどんな印象が残っていますか?
- 翁長 裕 当時の彼らのプロデューサー、大元締めが井ノ口(弘彦)さん。僕がちょうどRCサクセションを担当して、りぼんという事務所に出入りしている時に、いつも表でキャッチボールしている若い衆がいて、それが井ノ口さんと広瀬(利仁)さん(=当時のGLAYのステージプロデューサー)の2人で(笑)。齢も近いんで我々は馬鹿話していつも盛り上がっていたんです。で、時が経ち、同じ業界にいることは当然知ってましたけれども、何かの折に電話をかけて来てくれて、「今度、新人をやるんでちょっと手伝ってくれよ」ってところからで、それが「Freeze My Love」のPVです。その時はもう僕から見ても海千山千のバンドではあったんですけれども、実際に会って話をしてみるとすごくいい奴らで、売れるか売れないかは置いておいても、すごく親近感が沸いたので一生懸命にやりましたね。それからいろいろなことが合わさって、どんどん大きくなっていって。
1995年ですと、もちろん一定の人気はありましたが、そこまでビッグではなかった。そのあとですよね。あれよあれよという間にビッグなバンドになっていったのは。
- 翁長 裕 そうですね。僕からすると、おかげ様でいろんな新人のアーティストの方々と仕事をさせていただいたんですけれども、毎回すごい責任を感じていて、ヘボなものを作ると彼らの行く末に悪い影響を及ぼしてしまう可能性もあるじゃないですか? 駄作を作ってしまうと次がないわけですから。そこではいつも重たいものを背負ってやってきたんですけど、GLAYの時はとにかくTAKUROがものすごく真摯というか、大人だなと思いましたね。見てくれはビジュアル系でしたけども、話をしてみるとすごくしっかりとしていて。当時はドラムがまだ永井さんではなかったですけど、もちろん他のメンバーも皆さん、すごく一生懸命で、応援したい気持ちにはなりましたよね。
音楽制作以外で何か覚えていらっしゃるエピソードなどはありますか?
- 翁長 裕 「Freeze My Love」の時はそこまで深い会話もないままだったんですけど、その次の作品……「Yes,Summerdays」かな? その時は「予算がないから…」という話だったので、「予算がないなら時間をくれよ」というので、ひとり1日もらったのかな? それで、そこから長い間、僕と一緒にやってくれたヒロ伊藤さんというカメラマンと、メンバーひとりと僕の3人であっち行ったりこっち行ったりして撮ったんですよ。その時にはごく個人的な話をして、勝手に僕らが先輩感を持ってしまって、後輩を可愛がるみたいな会話でしたね。とは言っても、決して上から目線ではなかったですよ(笑)。
(笑)今「予算はないが時間はあった」と仰いましたが、その後、GLAYはどんどん忙しくなって、予算はあるが時間はない状況になっていったと思います。その辺りで翁長監督が何か感じたこと、思ったことはありましたか?
- 翁長 裕 今お話したようにちょっと先輩風を吹かせていたのも束の間、あっという間に追い抜かれてしまって(苦笑)。かと言って、これは僕のポリシーなんですけれども、どんなに売れているアーティストの方でも、ポッと出の新人でも、物を作る時に上下関係ってないと思ってるんですよ。上から目線でも下から目線でもあまりいいものはできないと思っていて、その人たちがすごく情熱を込めて作った楽曲に対しては、こちらも自分の持っているすべての引き出しの中からあらゆる可能性を持って語って、そこから生み出すというのが一番正しいと思っているのですね。その中で遠慮とか忖度みたいなものが介在しちゃうとちょっと歪んでしまうと思うんですよ。だから、「こういう風にしたいんだけど、どう?」というキャッチボールの中で生まれてくるものというのが一番の理想なんですね。で、だんだんとそれができなくなることが一番恐れるところではあるわけですけれども、幸い、僕とGLAYの間ではそれは最小限に抑えられてきたような気はしてます。
それは理解できます。翁長監督とGLAYとの関係がそうでなかったとしたら、今回『ONE LOVE Anthology』で収められている映像は残ってなかったでしょうから。
- 翁長 裕 うん、そうなんですよね。僕も改めて数十年ぶりに見返してみて、「ヒロさんがここまで撮ってくれてたんだ」というか、ヒロさんにいろんな表情を撮られているメンバーを見た時に、この無防備な感じはすごく貴重だなと思って、丁寧に繋いだつもりではありますけれども。
はい。『ONE LOVE Anthology』の話の前にもうひとつだけ訊かせてください。『GLAY EXPO ‘99 LIVE IN MAKUHARI』のことです。あのライブはまさにGLAYが日本の音楽シーンのトップに昇り詰めた瞬間だったわけですが、VIDEO制作に携わった監督として、あの時に感じたことをここで改めて言葉にしていただくとすると、どんな風になるでしょうか?
- 翁長 裕 とにかく、メンバーもそうでしょうけれども、僕の立場においても、1作品を作り終えたあとに絶えず次の作品、次の作品…という風に大波が押し寄せて来るような時期だったんですけれども、そこでルーティンワークしちゃうと、先ほどもお話したように、足を引っ張ることになってしまって僕の存在価値がないわけですから、とにかく毎回「何か新しいことができないか?」というアプローチの連続だったんですね。ただ、20万人を集める人たちとなると海外を含めて他にいないわけで、僕も学習の余地がないというか……。あの時に一個だけやりたかったのが、俯瞰を縦横無尽に動くカメラがあるじゃないですか? 今は普通になっていますけれども、あれは当時アメリカで事故を起こして日本では禁止になっていたんですよ。一時、使っていたんですけど、日本は消防法がうるさいんで、ちょっとでも危ないものはダメなんです。で、それが使えないということだったんですけど、その画は絶対に入れたかった。予算的にも非常に無理がある話だったんですけど、それを最優先でキープして、とんでもない条件を付けられたんですけれども、それはあとで何とかしようという話にして(苦笑)。それが印象に残ってますね。その他にも当時の日本で一番スケール感のある映像を撮れる機材をすべてかき集めて、特機の見本市みたいな現場でしたね(笑)。
裏側はライブ映像の展示会みたいな状態だったんですね。
- 翁長 裕 そうですね。ただ、それはそれとして、見る人の気持ちということから考えると、日本全国、北から南から集まって来る若い子たちは僕らの何百倍もワクワクして来るわけで、「その気持ちをどう伝えればいいのか?」「どう記録に残せばいいのか?」というところも同時に考えまして。そのために北海道から沖縄までスタッフを派遣して、上京して会場に集まって来る観客の目線からも画を撮ったんですね。僕が幸せだったのは、あれは発売まで1年空いたんですよ。それは井ノ口さんの英断だったんですけれども、中途半端にリリースするよりも、1年後の記念日にバッチリ出そうということで、その1年間は僕、チマチマと編集していましたね。あと、収録の日に僕は中継車に居たんです。いろんな仕込みの集大成でもあるわけですから、(中継車に居ること自体が)ちょっと感慨深かったんですけども、フッと我に返って、自分でも現場の雰囲気を体感したくなったんですね。それで中継車から降りてしばらく会場を歩いていたら……いやぁ、あれは何て言うんだろうね? あれは伝え難いですよね。あの空気というか、あれだけたくさんの子供たちの感動がひとつのうねりになっているわけじゃないですか? それに応えるメンバーもいろんなことがピークに達している。そういうものを目の当たりにして、歩きながらちょっと泣いちゃいましたね……フフフ(笑)。
そうでしたか。翁長監督のキャリアは日本のアングラロックを写真に収めることからスタートしたと伺いましたが、アングラではないロックにしても、1980年代前半においてはまだそれほどメジャーな音楽ではなかったと思います。そんな時代から文字通りシーンを見続けてきた翁長監督ですから、日本のロックバンドが20万人も観客を集めた事実を目の当たりにした時には、それはもう感慨深いどころの騒ぎではなかったでしょうね。
- 翁長 裕 そうですよね。JAGATARAで感じた、あの魂の浄化、上がっていく感じが、桁違いであそこの会場にあったわけじゃないですか? 天に通じるような感じが。それはGLAYのライブにはいつも感じていたことなんですけども、メジャーであろうがアングラであろうが、そういう現象が「音楽は素晴らしい!」と思うところで。安っぽい言い方ですみませんが(苦笑)。
いえいえ。自分も幕張メッセに行く度にあの駐車場を見ては、ここにギッシリと人が集まっていたんだなと思っていますが、翁長監督の想いは我々より何倍も大きいということになりますでしょうか。さて、お待たせしました。ここからは『ONE LOVE Anthology』について伺っていきます。翁長監督の関わり方としては、DISC3で過去の映像の確認とその再編集をされたそうですね。
私も拝見させていただきまして、まず思ったことは、先ほども少しお話に出ましたが、2000年前後のミーティング風景やリハーサルの模様がよく映像として残っていたなと。当時メンバーやスタッフから「とにかく映像を残しておいてほしい」という指示があったんですかね?
- 翁長 裕 私も詳細は定かに覚えてないんですけど、当時はイベントが目白押しだったわけですから、それに伴う映像で残しておくべきものはすべて撮っていたと思いますね。ただ、それをすべて作品化するプロセスを経たかというとそうではなくて、僕も見た記憶があるんですけれども、編集した記憶は残っていないので、何かしら商品化するようなことはなかったと思います。
よくここを撮らせたなと思うようなショットもあって、メンバーと撮影スタッフの間のコミュニケーションがツーカーというか、かなりしっかりとした信頼関係が構築されていたこともよく分かりますね。
- 翁長 裕 そうですね。ヒロさんというカメラマンのキャラクターもありますし、メンバーの方からしても(カメラマンが側に)居て当たり前というか、「ここは撮らないで」ということはあんまりなかったですよね。ですから、そこにあった信頼関係というのは、今さらながらありがたいなと思ったところですね。
そこまで築き上げてきた信頼関係があればこそ…というわけですね。今回、過去の映像から再編集するにあたって、翁長監督が心掛けたことは何だったでしょうか?
- 翁長 裕 まぁ、今までお話したことと一緒ですけど、エッセンスですよね。ここまで開けっ広げに撮らせてくれている中で、捨てちゃいけないエッセンスというのがあるわけで。全部撮りましたと。でも、その中でどれを使うのかというところが信頼関係の元じゃないですか? それがあったからこそ、ずっと撮らせてくれていた中で、時が経ったにせよ、「あ、こんないい話をしていたよね」とか「あ、ここまで一生懸命にやってたんだな」とか、(そこには)ひたむきさというか、真面目さがあって、一個もルーティンワークがないわけですよ。「ここはちょっと流してもいいんじゃね?」みたいなところがない。あったとしたら、そこにハサミを入れなくちゃいけなかったんですけど、それがないわけですから。逆に言えば、短くするのは非常に頭を使うところがありましたね。
そうでしたか。DISC3は「Member Meeting for GLAY EXPO 2001 “GLOBAL COMMUNICATION” Document」から始まりますが、大きなコンサートが作られていく過程が決して長いとは言えない映像にキチンと収められているのがとても良かったですし、メンバーのアイディア、発案がダイレクトに反映されていることも分かりますね。
- 翁長 裕 そうですね。そういう意味では、舞台チームも僕と何ら変わらず、家族的な関係でやっていて、予算がありき…という話ではなく、まずメンバーがやりたいことを実現するためにどういう方法論があるかという話の進め方だったというように僕は見ていましたね。
TAKUROさんが「こんな風にしたいんだ」と手書きでロゴを見せるというシーンがありましたが、あそこは印象的で、「メンバーはこんなこともやっていたのか」というちょっとした驚きがありましたよ。
- 翁長 裕 おそらく彼らは、最初に自分たちでバンドを組んで、ライブ告知のチラシを作って、デモテープを作って…とやっていた頃と何ら変わってないと思いますね。しかも、「そこから先はお願いね」という丸投げでもなくて、些細なことまで全部、自分たちで愛情を通わせる作業という。僕から見ていても、「そこまでやってんだ……そこはプロに任せておけばいいじゃん」って改めて思うようなことがありましたね(笑)。
2001年の『GLAY EXPO』では九州会場でアジア各国からバンドを招きましたが、TAKUROさんがアジアからバンドを招聘する旨を発表した時のミーティングの模様が残っていたのも驚きでした。ねぇ(笑)?
こう言っちゃなんですが、ああいうことはスタッフの誰かが決めてメンバーの承諾を得るケースが多いとは思うんですが、こうして映像に残っている以上、リアルにメンバーの発案だったことが分かりますね。
- 翁長 裕 しかも、広瀬さんたちもその瞬間ちょっとギョッとしてて(笑)。
そうそう。「え、何言ってんの!?」という表情が垣間見えますよね(笑)。あと、打ち合わせ等の映像にライブに訪れた観客の姿やステージの模様を差し込んでいますね。ドキュメンタリー映像だけだと単調になってしまうようなところがあると思うんですけれども、そうではなく、当時のコンサートの雰囲気も蘇ってくるような演出もとても良かったです。
- 翁長 裕 そこはね、現代に通じるんですけど、マネージャーの方々が愛情を持っていろいろと考えてくれてて、「こういうのを差し込んだらどうですか?」っていうアドバイスをくれたんですよ。実際のEXPOの映像を使ってみたら…と。「なるほどね」と思ってね。僕はそこまで思いが至らなかったところがあったんです。
ということは、DISC3は“チームGLAY”で制作したとも言えますか?
- 翁長 裕 そうですね。脈々と培われてきた愛あるマネージメントの成果じゃないですかね。
ミーティングの映像と実際のコンサートの模様が重なり合うことで、ドキュメンタリーがふくよかになっていますよね。ありがとうございます。今、振り返ってみた時の達観したすごさというか、熱さというか、たくさんの人たちの情愛が読み取れて、時間が経つと成熟してきて見えて来る何かってありますよね。
そして、その次に「Pre-production for GLOBAL COMMUNICATION Document」が収録されていますが、個人的にはこれがDISC 3のベストテイクだと思います。何が素晴らしいかと言うと──以前TAKUROさんが『Anthology』シリーズを制作する理由として、「アルバム1作品を作るにはこれだけの制作背景があったことをファンに知ってほしかった」という主旨の発言をされていたんですね。この「Pre-production~」はまさにそれに合致していると思います。まず、これもまたよくこれだけの映像が残っていたものだと素直に思ったところです。
- 翁長 裕 3時間くらいありましたかね。TAKUROくんがギターを弾きながらいろいろと思い悩んでるところを、そのままずっとヒロさんが撮ってたわけで(笑)。普通だったら邪魔ですよね。うるさいですよね。集中できなくて、「ちょっとひとりにしてくれる?」って言ってもおかしくない。というか、普通はそう言いますよね(笑)。でも、あのお喋りなヒロさんが一言も口を挟まずにジーっと撮ってるっていう様は、僕は改めてすごいと思いましたね。今回のドキュメントではほとんどヒロさんはじっくり黙って記録してくれているんですよね。普段はうるさいんですよ(笑)。喋りながら撮るんで、ハサミを入れるのが大変なんですけど(笑)、今回は大人の撮り方をしてくれてましたね。
『ONE LOVE Anthology』を購入した人は、是非DISC2で「GLOBAL COMMUNICATION Demo」を聴いてから、DISC3の「Pre-production for GLOBAL COMMUNICATION Document」を見てほしいと思います。デモ版がどのようにしてリリース版になっていったかを時系列を追いながら映像で見せる──これはホント素晴らしいドキュメンタリーですね。
- 翁長 裕 そう言われてみると、なかなかないものですよね。最初の段階なんて「曲になるのかな、これって?」みたいなところがあるじゃないですか?
特に歌詞が「これ、大丈夫かな」って感じですよね(笑)。ははは(笑)。
メロディーにしても当初は雑なところがあるんですけど、そういうところもカメラの前でオープンにしちゃってるんですよね?
- 翁長 裕 その潔さがいいですよね。昔、『GLAY pure soul 'MOVIE 〜ここではないどこかへ〜』で「ここではないどこかへ」が成長していく様も表現したんですけど、それが「GLOBAL COMMUNICATION」にも凝縮した感じで。僕も「すごいんだなぁ」と思いました。
何しろ、オープニングでTAKUROさんは「アレンジが浮かばない」と言っている上、その後、作者がコードを覚えていないことも映っています(笑)。
- 翁長 裕 (笑)音楽を楽しんでいることが分かりますし、今、音楽をやっている人が見たらすごい力をもらえるんじゃないですかね。
あと、翁長さんのようなベテラン監督にそこを指摘するのは逆に失礼なのかもしれませんが、「Pre-production for GLOBAL COMMUNICATION Document」の何がいいって、最後に完成音源が流れるところがとても良くて。あの流れはホント素敵だと思いました。
- 翁長 裕 ありがとうございます。その間にもうちょっとあってしかるべきなんですけど、あまり冗長になっても…というところで、最後はすっきりと終わらせた形ではあります。
楽曲が完成していく過程を追ったドキュメンタリーですから、ラストで本チャンが流れると、それまでの伏線が回収されたような感じがするんですね。「ここのメロディーはこんな風に変わったのか」とか「ここにコーラスを入れたのか」とか。
- 翁長 裕 歌詞は変わり過ぎですよね(笑)?
そうですね(笑)。そこもまた楽しいところではあります。あと、「ひとひらの自由」を使ったリハーサル風景が見れる「GLAY EXPO 2001 Rehearsal Digest」も印象的だったんですけど、これもまた当時のメンバーのオフの表情を見ることができますね。
- 翁長 裕 それは「ひとひらの自由 Multi Angle」と併せてお話しましょうか。「ひとひらの自由」は、あの楽曲を基にメンバーが登場しない風景みたいなものを想像して、BGVとしてのPVを作ったんですね。スタジオに大きなテントを作って、テントの向こう側からプロジェクターで投射する方式をとったんです。で、PVの撮り方としては王道ではあるんですけれども、まずメンバーひとりひとりを撮っていって、それを撮り終えた段階でバンドを集合体として何回か撮って、それを組み合わせるという手法なんですね。その素材が残っていて、今言ったひとりずつを撮っていったものなんですけど、これが僕にとっては感慨深くて。何故かというと、バンドというのはひとりずつのミュージシャンの集合体なわけじゃないですか? 個々のアーティストの感性はプレイに表れるわけですけれども、それだけで曲を完結させることはできないわけですよね。他のメンバー分もあるし、バンドとしての映像を見せるという意味では、細分化されてしまって、時間軸の中でひとりのメンバーの感情の動く様みたいなものを捉えることができないわけです。でも、今回はそれができたんですよ。イメージした世界観の中で、ひとりの若者がどういう心持ちで表現していくかというところを感じられる、いいチャンスだったというか。改めて(メンバー個々の映像を)見て感動したりしたんですけど、それを混ぜるのではなく、マルチ画面として同時に見れるというのはおもしろい試みだったと思うんですね。昔、「SOUL LOVE」でそれに近いことをやっていますけれども、「ひとひらの自由」みたいなメッセージ性が高い楽曲で、深みがある歌詞の中で表現するというのは一味違っていて、すごくおもしろかったです。で、それがありつつ、その「ひとひらの自由」のリハーサル風景も、全部リップシンクではなくて、例えば、思い悩んでいたり、何か考えながらプレイに挑んでいたり、それぞれのアーティストの想いみたいなものが垣間見えるというか、想像できるというか、そういうおもしろさもあったんで、僕の中では対になってるんです。
なるほど。確かにリハーサル風景のプレイしていないシーンでも、ひとりのアーティスト、ひとりのミュージシャンがそこに居る…といった感じがしますよね。
- 翁長 裕 そうなんです。PVの衣装なんかもそうなんですよ。普段はスタイリストがきっちりいろんな衣装を揃えてくれるわけですけれども、あの時はメンバーの発案で私服で行こうということになったんですね。そういうことからしても、素の若者たちの葛藤というか。TAKUROの書いた歌詞の世界にどこまで想いが至っていたのかは人それぞれだったとは思うんですけれども、ただ、ひとりひとりが一生懸命にアプローチしていたというか、歌詞の世界の中に自分を追い込もうとしていたというプロセスが垣間見えたのかなと思って、僕は繋ぎましたけどね。
分かりました。これは全体的な話になりますけど、今回DISC3の映像を見て感じたのは、翁長監督は人物のナチュラルな表情を捉えるのがお上手な方だなということです。今回ではEXPOに集まった人たちの高揚感あふれる表情がとても印象的でしたし、先ほど監督から「SOUL LOVE」の話が出ましたけど、あのPVではJIROさんとTERUさんとの絡みで見せる2人の表情が今も印象に残っています。翁長監督の信条としてナチュラルな姿を収めたいといったところがあるんですか?
- 翁長 裕 究極を言わせてもらうとそれがすべてなんですよ。ちょっと「SOUL LOVE」の話をさせてもらっていいですか? 「SOUL LOVE」は、GLAYがガーッと急上昇していく中、ずっと1等賞続きの中での、ものすごい1等賞だったわけですよ。僕の立場からすると、何か記念碑的なものにしたいという意味合いもあったんですね。今そういう話をしていただいてすごくうれしいんですけれども、僕が一番好きで、おそらくファンも好きであろうと思っていたのが、素の表情の輝きというもので。彼らの場合はそこに友情もあるし、個々のアーティストとしての高揚感もあるし、とにかく見ていて気持ちいいんですよ。嘘偽りがない、いい笑顔というかね。だから、それを撮りたくて、「SOUL LOVE」の時は、メンバーを現場に立ち入らせなかったんですよ。(撮影するまで)立ち入り禁止にしていたんです(笑)。僕らは前日からセッティングに入っていろんな舞台を用意して──あそこは大谷石地下採掘場の跡で広い空間なんですけど、そこにいろんな大道具、小道具を持ち込んで、大人の遊び場を作ったんです。そこに当日メンバーが入ってきて(セットを)見たがったんですけど、「ダメ!」って言って一切見せない(笑)。あれもドキュメントなんですよね。PVの作りなんですけど、実はドキュメントで、カメラ2台を回したあとでメンバーが入ってきて、(メンバーが)「おお、これは何だ!?」というところの表情を頼りに繋いでいったんですよ。それぞれの舞台で、「今度はJIROね?」という形で順に撮っていったんですけど、そこでのハプニングというのはいい方向にしかいかないんですよ。僕はそういうのが好きなんですよね。それはお客さんに対しても同じで、「この子たちはホントにGLAYのことが好きなんだな」「ホントにこの場に居てうれしいんだろうな」「ホントにこの曲を聴いて心底舞い上がってるだろうな」ってところを記録するのが好きなんです。それはどうしてかというと、映っている人たちは自分がそんな顔をしているなんておそらく分からないし、 個人々々の感情というものをつぶさに記録しておいてあげて、それを適材適所で入れてあげることによって、シンパシーというか──。
そこにある体温をちゃんと感じられるというか。
- 翁長 裕 そうそう。そういうことです。血を通わせたいというのがあるんですね。
翁長監督の作品にはそれが圧倒的にありますね。
- 翁長 裕 マスであろうが、すごいシンボリックな人たちであろうが、全然それは一緒で、そういう人たちが何を感じているのかというところに僕は興味があって、それが表現の原動力になっていると思います。
分かりました。今日は長々とお付き合いいただいてありがとうございました。最後に、翁長監督から『ONE LOVE Anthology』を手に取ってくれるGLAYファンに向けて一言いただけますでしょうか?
- 翁長 裕 はい。おそらく当時、『ONE LOVE』を最新作として受け止めてくれた人たち、ライブで盛り上がった人たちは、20数年経って、もう大人になっているわけじゃないですか? 家庭を持っている人もいるでしょうし、傷付いたり、立ち直ったりしてきたと思うんですけど、その当時、あなたたちが愛して慕っていたメンバーは、今のあなたたちからすると、子供と言ったら変だけれども、齢下なんですよ。でも、彼らは未だにすごいことをやり続けていて、それを好きだったあなたたちも頑張って生きているわけですから、自分自身を肯定する意味で見返してほしいなと。そんな気持ちがありますね。